バジャウと縄文人

千葉大学名誉教授 榊原健一

 バジャウ(Bajau, Bajaw)はフィリピン・インドネシア・マレーシアを結ぶ広大な海域のSea Nomad(海の漂泊民)である。総勢150万人くらいで、漁業や交易などで生活している。生活全部が海、というわけではなく、この海域の島々の沿岸部に散らばって住んでいる。周縁の人々との交流もある。私はコロナ前の2019年にバリ島のバジャウの女性と話す機会があったが、彼女はバリ島の丸木舟をつくる大工の親方の男性と結婚し、幸せに暮らしていた。なれそめを聞いたところ、どうやら、夫が彼女の島に行って見初めたようで、幼児を抱いて恥ずかしそうに話してくれた。

 このバジャウには驚くべき能力がある。海に10分くらい、深さにして60メートルくらい潜れるのだ。もちろん素潜りである。これがどれくらいすごいか、というと、現代日本の最高レベルの海女はせいぜい1分くらい、そして深さ20メートルくらいのようだから、まるでレベルが違う。この能力の秘密は脾臓にあるようだ。幼少期より長時間水に親しんでいると、どうやら脾臓が大きくなり、ここに血液を貯蔵しておいて潜水のときに使っているようだ。何世代にも渡ってこの形質が遺伝し、発達したとすれば、現在の能力も納得できるだろう。

 ところで、もしも、の話だが、縄文人がこのバジャウの能力を持っていたとしたら、どういうことになるだろうか。縄文時代といっても長いから前期から中期の、温暖化と縄文海進の時代を念頭においてみる(6~7千年前から4~4.5千年前)。多くの丸木舟が発掘されている時代である。この丸木舟にバジャウ的な能力を持つ縄文人が乗っていたら、ということを考えてみる。以下は門外漢の考えるチャラッポコである。

 まず言えることは、縄文人にとって海は怖くない、ということだろう。海で一番怖いのは嵐だろうが、嵐の中で1分しか潜れない、というのと10分間潜れる、というのでは雲泥の差がある。舟から放り出されても何ということはない。命綱さえあれば溺死せずに戻って来られるのである。その上、丸木舟は嵐でも壊れない。転覆したらどうする、と言われても、おそらく縄文人にとっては、つかまっていられれば、それで十分だったことだろう。嵐が収まれば転覆した舟を起こし、また旅を続ければ良い。

 というわけで、時間はかかるものの、かなり遠くまで行き来することができたことだろう。航海に必要な食料は魚を獲れば済むし、飲料水代わりに瓜でも積んでおけば良い。1週間くらいの航海は朝飯前だったろう。適当な距離に島や陸があればどこまででもいける。おそらく、縄文人の活動範囲は日本列島沿海だけでなく、遠く、東シナ海から南シナ海にまで及んでいたのではないだろうか。若者なぞは行く先々で歓迎されたかもしれない。お伊勢参りならぬ沖縄参り、マカオ参り、なんてね。時代は大分下って魏志倭人伝にも「倭人在帯方東南大海之中」とあるが、ひょっとすると三国時代の中国では、数千年の交流の中で、倭人を海民として認識していたのかもしれない。

 さて、そうなると面白いのは貝貨だろう。古代、貝貨は縄文人だけでなく、中国を始め多くの地域で用いられていた。貝貨が貨幣として交易に使われていたのかそれとも贈答品として使われていたのか、諸説あるようだが、貴重品として扱われていたことには異論はないだろう。その貝貨の貝は熱帯や亜熱帯に生息するタカラ貝である。もしも縄文人がバジャウ並みに60メートルくらい潜れるとしたら、タカラ貝は取り放題であろう。

 ということは、下世話な話だが、縄文人は、例えてみれば医者や弁護士のような高給取りだったに違いない。採ったタカラ貝を日本に持ち帰る、ということもあったろうが、現地で見返りに何かを手に入れるとしたら、何だろうか。まあ、酒か珍しい食べ物だろう。生姜のようなスパイスや薬草だと嬉しかったろう。なにせ高給取りだからよりどりみどりである。ちなみに、この時代は稲作で有名な河姆渡遺跡(4、5千年前の中国上海付近の遺跡)と重なるが、縄文の若者がここまで来て現地の美女に一目ぼれして結婚してしまう、ということがあったかもしれない。若者が嫁を日本に連れ帰ってくるとき、嫁入り道具として親は米や種籾を持たせたことだろう。なんと、日本の稲作の起源は縄文の若者の驚異的な潜水能力にあったのである!

 この縄文人の活躍も、縄文後期・晩期になると衰えてくる。海水温が低下してくるからだ。寒いと海は難儀である。徐々に水上から陸上へと生活の軸足を移し、その結果、バジャウみたいな能力も衰えていったことだろう。今では、60メートルの深さまで、10分間も潜れる日本人はいない。

 以上、長々とチャラッポコを書いてきたが、縄文人バジャウ説は全くの絵空事だとも思えない。以下に傍証とも言えないようなものを2つ挙げることにする。

 まず、今に残る海女の伝統である。海女と言えば女性だが、昔は男性も潜っていたのかもしれない。男性は女性よりも寒さに弱いから、女性だけが潜るようになったのだろう。ちなみに海女は防寒に服を着て潜るという。ひょっとするとだが、縄文晩期に多く出土する有名な遮光器土偶は海女の姿かもしれない。そうだとすると、あれは遮光器ではなく、水中で採取して赤くなった目を表現しているのだろう。

 次に、カッパ伝説が縄文バジャウの生き残りの話とオーバーラップする。有名な「尻子玉を抜かれる」、という話だが、争いで陸の人が縄文バジャウに水中に引きずりこまれたら、まず生きては帰れないだろう。仮に水面まで戻れたとしても、潜水病でアウトである。尻児玉を抜かれる、というのは、潜水病で内臓などが肛門から出てしまった状態の描写かもしれないのだ。また、カッパはキュウリが大好物、という話も、丸木舟で水代わりに瓜を食べた、ということから来ているかもしれない。

 以上が縄文バジャウのチャラッポコだが、それはさておき、バジャウに限らず、人間の潜在能力には思いもつかないものがあるかもしれない。ナンバ歩きの例もある。現在の人間の能力をもってご先祖様の能力を過小評価するのは慎みたいものである。

2021年9月6日

参考文献
長津一史、「『海民』の生成過程 : インドネシア・スラウェシ周辺海域のサマ人
 を事例として (<特集>跨境コミュニティにおけるアイデンティティの継続と
 再編)、白山人類学、15号pp. 45-71、 2012。
額田年、椿恒城、「海女の体力医学研究 (第1報) 海女の業態・分布及び労働に
 ついて」、体力科学、11 巻 4 号、 pp. 184-187、1963。
安木 新一郎、「殷代の貝貨と縄文時代のタカラガイ加工品」、函館大学論究、52巻
 2号、pp. 43 – 52、2021年。
Stacey, Natasha, Dirk J. Steenbergen, Julian Clifton, Greg Acciaioli,
“Understanding Social Wellbeing and Values of Small-scale Fisheries
amongst the Sama-Bajau of Archipelagic Southeast Asia”, in Johnson, D.,
Acott, T., Stacey, N., Urquhart, J. eds, Social Wellbeing and the Values of
Small-scale Fisheries, Ch. 5, Springer, 2018.

日本は儒教国ではない

榊原健一(千葉大学名誉教授)

 東アジアは儒教文化圏などと言われている。通常の見方は次のようなものである。すなわち、日本では、欧米の近代的な価値観が明治期に導入される以前、儒教的な道徳が社会に根付き、その価値観の下で文化が育まれてきた。これは中国や台湾、韓国・北朝鮮も同様である。言わば、東アジア諸国は儒教で結ばれた兄弟国なのである、というようなものである。誤りである。そもそも儒教とは道徳ではない。
 では儒教とは何か? 政治思想である。マキャベリの「君主論」には「君主はいかに国家を統治すべきか」が書かれているが、孔子が主張もこれと同様である。ただし、マキャベリのように「権謀術数」を用いて統治せよ、というのではなく、徳治、すなわち、「仁」によって統治せよ、と主張しているのである。統治するのは君主・諸侯であり官僚である。儒教とは彼ら支配者のための思想である。決して庶民のための思想ではない。
 もちろん反論はあるだろう。日本では儒教が道徳として広く親しまれているではないか。新渡戸稲造は『武士道』で、サムライの行動規範としての朱子学を強調している。渋沢栄一は『論語と算盤』で、経営者のモラルを論語の視点から論じている。さらには、小学校の校庭の二宮金次郎(尊徳)の銅像だって柴刈りの道すがら儒教の本を読んでいたではないか、ということを言う人も多いだろう。確かに「仁」は道徳である。しかし、「仁によって統治せよ」と主張する儒教は道徳ではない。これは、例えてみれば、「ハンバーグは食べ物であるが、ハンバーグを出すレストランは食べ物ではない」、というようなものである。儒教を道徳としてだけ捉えるのは儒教の根幹の考え方を見ていないことになる。
 では儒教の根幹の考え方とは何か。天命思想である。天がある人に命じ国家の統治をさせる、という考え方である。命じられた人は天の名代、すなわち天子(天の子供)として君臨する。ここで、「なるほど、だから天皇のことを天子と呼ぶのか」と考える人がいるかもしれない。「なんだ、では日本は儒教国ではないか。万世一系の天皇が天子として日本を支配しているのだから」。残念ながら誤りである。というのは、儒教の天命思想には「易姓革命」があるからである。
 易姓革命とは、change(易) family(姓) renew(革) order(命)、すなわち、命(天命)を革め姓(天子の姓)を易える、ということである。天が現在の天子を替えて別の人(家系)に国家の統治を命じるのである。易姓革命での王朝交代には2つの種類がある。1つは「禅譲」で、徳治を行なっている天子が、これはと見込んだ人に天子の座を譲ることである。もう一つは「放伐」で、徳の無い天子が追い払われ、別の人が天子の座につくことである。ここで「革命」という言葉があるが、これは現代用語の革命(revolution)の意味ではないことに注意が必要である。revolution は放伐の意味はあっても禅譲の意味は無いからである。易姓革命では支配者の家系が替わる。大事なのは徳治をするかどうかであって、万世一系自体に儒教的な価値があるわけでは無い。
 この易姓革命がなぜ重要か、というと、この思想によって、国家は統治の正統性(legitimacy)を獲得するからである。やくざマフィアの類がいくら地域を支配しても、だれもそれを正統とは認めないだろう。権威ある天が指名してはじめて、その支配者は大手を振って統治できるのである。もちろん「天が指名する」といっても、空想上の存在である天が具体的に指名するわけではない。どうすれば良いのか。まず、禅譲の場合は、天子が後継者を指名する。天から反対がなければ認められたものと見做す。一方、放伐の場合は、ある人が突然、天命(天からの命令)を受けた、と言って現王朝と戦う。倒せれば、天命が事後的に正当化されるのである。まあ、ご都合主義と言えばそれまでだが、中国ではそれで何千年もやってきたのである。
 さて、以上を踏まえて、日本が儒教国であるかどうかを検討してみよう。儒教国とは、国家存立の正統性を儒教という政治思想に依拠している国、という意味である。まず、この問いかけは大幅に割り引いて考えなければならない。というのは、儒教という政治思想は中国の王朝の正統性についての思想であり、これを他国に当てはめること自体が無意味だからである。中原(中国の平原)を囲んで東夷、西戎(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)の野蛮人がいる。これが中華世界、すなわち、天命により天子が支配する国である。東夷の野蛮国である日本が儒教国である、ということを字義通りに解すれば、日本は、中華世界の天子に服属する国ということになってしまうのである。ということで、大幅に割り引いて、「儒教国」の定義を変えることにする。すなわち、「中華世界から切り離された独自の世界で、国家存立の正統性を儒教に依拠している国」、とするのである。この定義の下で、日本は儒教国なのかどうかを検討する。
 まず、天皇について考えよう。儒教の文脈で考えれば、天照大神の天命によって神武天皇が天子となり、以降、子孫が脈々として日本を統治している、ということになる。しかし、この期間、実際に統治していたのか、というと、必ずしもそうではない。特に江戸時代は、有名な紫衣事件や禁中並公家諸法度をみれば明らかなように、統治していない。ということは、儒教的視点に立てば、天皇家が戦国時代まで天子であったとしても、易姓革命によって、天命は天皇家から徳川家に移った、ということになる。結局、天皇と易姓革命は両立しないのである。この非両立性が、雑な言い方をすれば、明治維新の国家神道への道を拓くことになる。すなわち、「万世一系の天皇」と「仁」の合体によるハイブリッド神道である。はじめに「儒教は道徳ではない」と書いた。日本で儒教が政治思想ではなく、仁という道徳として取り扱われる理由は、このハイブリッド神道に由来するものと考えられる。
 筆者はこの日本的な儒教の捉え方を肯定も否定もしない。事実として述べるだけである。ただ、ここで重要なことは、「この捉え方は他の儒教国には通用しない」、ということである。中国にせよ(台湾は微妙だが)、韓国・北朝鮮にせよ、本来の意味での儒教国家である。政治思想としての儒教を国家の正統性の根拠にしている国家である。このような国家にたいして安易に「儒教で結ばれ、価値観を共有する国々」といういうような視点で物事に対処することは、相互理解の妨げになるだけでなく、きわめて危険なことであろう。

以上