榊原健一(千葉大学名誉教授)
東アジアは儒教文化圏などと言われている。通常の見方は次のようなものである。すなわち、日本では、欧米の近代的な価値観が明治期に導入される以前、儒教的な道徳が社会に根付き、その価値観の下で文化が育まれてきた。これは中国や台湾、韓国・北朝鮮も同様である。言わば、東アジア諸国は儒教で結ばれた兄弟国なのである、というようなものである。誤りである。そもそも儒教とは道徳ではない。
では儒教とは何か? 政治思想である。マキャベリの「君主論」には「君主はいかに国家を統治すべきか」が書かれているが、孔子が主張もこれと同様である。ただし、マキャベリのように「権謀術数」を用いて統治せよ、というのではなく、徳治、すなわち、「仁」によって統治せよ、と主張しているのである。統治するのは君主・諸侯であり官僚である。儒教とは彼ら支配者のための思想である。決して庶民のための思想ではない。
もちろん反論はあるだろう。日本では儒教が道徳として広く親しまれているではないか。新渡戸稲造は『武士道』で、サムライの行動規範としての朱子学を強調している。渋沢栄一は『論語と算盤』で、経営者のモラルを論語の視点から論じている。さらには、小学校の校庭の二宮金次郎(尊徳)の銅像だって柴刈りの道すがら儒教の本を読んでいたではないか、ということを言う人も多いだろう。確かに「仁」は道徳である。しかし、「仁によって統治せよ」と主張する儒教は道徳ではない。これは、例えてみれば、「ハンバーグは食べ物であるが、ハンバーグを出すレストランは食べ物ではない」、というようなものである。儒教を道徳としてだけ捉えるのは儒教の根幹の考え方を見ていないことになる。
では儒教の根幹の考え方とは何か。天命思想である。天がある人に命じ国家の統治をさせる、という考え方である。命じられた人は天の名代、すなわち天子(天の子供)として君臨する。ここで、「なるほど、だから天皇のことを天子と呼ぶのか」と考える人がいるかもしれない。「なんだ、では日本は儒教国ではないか。万世一系の天皇が天子として日本を支配しているのだから」。残念ながら誤りである。というのは、儒教の天命思想には「易姓革命」があるからである。
易姓革命とは、change(易) family(姓) renew(革) order(命)、すなわち、命(天命)を革め姓(天子の姓)を易える、ということである。天が現在の天子を替えて別の人(家系)に国家の統治を命じるのである。易姓革命での王朝交代には2つの種類がある。1つは「禅譲」で、徳治を行なっている天子が、これはと見込んだ人に天子の座を譲ることである。もう一つは「放伐」で、徳の無い天子が追い払われ、別の人が天子の座につくことである。ここで「革命」という言葉があるが、これは現代用語の革命(revolution)の意味ではないことに注意が必要である。revolution は放伐の意味はあっても禅譲の意味は無いからである。易姓革命では支配者の家系が替わる。大事なのは徳治をするかどうかであって、万世一系自体に儒教的な価値があるわけでは無い。
この易姓革命がなぜ重要か、というと、この思想によって、国家は統治の正統性(legitimacy)を獲得するからである。やくざマフィアの類がいくら地域を支配しても、だれもそれを正統とは認めないだろう。権威ある天が指名してはじめて、その支配者は大手を振って統治できるのである。もちろん「天が指名する」といっても、空想上の存在である天が具体的に指名するわけではない。どうすれば良いのか。まず、禅譲の場合は、天子が後継者を指名する。天から反対がなければ認められたものと見做す。一方、放伐の場合は、ある人が突然、天命(天からの命令)を受けた、と言って現王朝と戦う。倒せれば、天命が事後的に正当化されるのである。まあ、ご都合主義と言えばそれまでだが、中国ではそれで何千年もやってきたのである。
さて、以上を踏まえて、日本が儒教国であるかどうかを検討してみよう。儒教国とは、国家存立の正統性を儒教という政治思想に依拠している国、という意味である。まず、この問いかけは大幅に割り引いて考えなければならない。というのは、儒教という政治思想は中国の王朝の正統性についての思想であり、これを他国に当てはめること自体が無意味だからである。中原(中国の平原)を囲んで東夷、西戎(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)の野蛮人がいる。これが中華世界、すなわち、天命により天子が支配する国である。東夷の野蛮国である日本が儒教国である、ということを字義通りに解すれば、日本は、中華世界の天子に服属する国ということになってしまうのである。ということで、大幅に割り引いて、「儒教国」の定義を変えることにする。すなわち、「中華世界から切り離された独自の世界で、国家存立の正統性を儒教に依拠している国」、とするのである。この定義の下で、日本は儒教国なのかどうかを検討する。
まず、天皇について考えよう。儒教の文脈で考えれば、天照大神の天命によって神武天皇が天子となり、以降、子孫が脈々として日本を統治している、ということになる。しかし、この期間、実際に統治していたのか、というと、必ずしもそうではない。特に江戸時代は、有名な紫衣事件や禁中並公家諸法度をみれば明らかなように、統治していない。ということは、儒教的視点に立てば、天皇家が戦国時代まで天子であったとしても、易姓革命によって、天命は天皇家から徳川家に移った、ということになる。結局、天皇と易姓革命は両立しないのである。この非両立性が、雑な言い方をすれば、明治維新の国家神道への道を拓くことになる。すなわち、「万世一系の天皇」と「仁」の合体によるハイブリッド神道である。はじめに「儒教は道徳ではない」と書いた。日本で儒教が政治思想ではなく、仁という道徳として取り扱われる理由は、このハイブリッド神道に由来するものと考えられる。
筆者はこの日本的な儒教の捉え方を肯定も否定もしない。事実として述べるだけである。ただ、ここで重要なことは、「この捉え方は他の儒教国には通用しない」、ということである。中国にせよ(台湾は微妙だが)、韓国・北朝鮮にせよ、本来の意味での儒教国家である。政治思想としての儒教を国家の正統性の根拠にしている国家である。このような国家にたいして安易に「儒教で結ばれ、価値観を共有する国々」といういうような視点で物事に対処することは、相互理解の妨げになるだけでなく、きわめて危険なことであろう。
以上